日本人に欠けている現実主義的アプローチ
2003年08月10日 00:00 : Comments (0) : Trackback (0) : このエントリーを含むはてなブックマーク

高塚年明(参議院第一特別調査室次席調査員)

我々日本人は、情緒的、観念論的であると言われる。時に美しい振る舞いとして賞賛されるが、利害の対立する問題には優柔不断とのそしりを免れないことも多い。なぜそうなのであろうか。それは、方法論、政策論としての現実主義的アプローチに疎いからである。しからば、現実主義的アプローチとは何であろうか。

M・ヴェーバーの「価値自由」を超えたと言われるG・ミュルダールの現実主義的アプローチが参考になろう。G・ミュルダールは、第一段階として「価値前提」を前面に置く。自由、平等、平和、繁栄など誰もが認める価値がこれに当たる。第二段階として「価値前提」と現状との距離、形状、質の相違を測定する。そして第三段階として、距離などの各種相違を縮める手段を考案する。このようにして最適な政策を導き出すのである。

しかし、我々日本人の多くは、ここでも情緒的、観念論的であろうとする。第一段階では、完全無欠の絶対的平和などに固執する。第二段階では、余りにも純粋な価値前提に縛られ、現状との乖離を嘆くのみという思考停止状態に陥る。第三段階では、こうしたことが重なり合い、合目的的な手段しか認めないという態度をとり、具体的かつ効果的な政策を導き出せないという結果をもたらす。最悪の場合、「価値前提」の美しさを賞賛するのみとなる。

この点に関し、最も分かり易い例は安全保障である。情緒的、観念論的に捉えれば、平和とは非軍事、非暴力、非強制そして大量破壊兵器はもちろん、通常兵器一つ無い世界である。こうした思考方法から導き出される政策は、非暴力、非軍事的手段のみで暴力、軍事攻撃に対処せよというものである。しかし、我々の住む現実の世界では、対立、紛争、戦争の危険性は存在する。こうした現実は認めざるを得ないのである。現に我が国に対して軍事的威嚇を示している国が存在することは誰もが認めるところである。適正な現実主義的アプローチからすれば、第三段階において、本来暴力装置であるはずの軍事力も部分的に活用せざるを得ないのである。もちろん、軍事力をどれぐらい保有し、どのように活用するかという議論は別に存在する。

ではなぜ情緒的、観念論的に過ぎるのであろうか。それは、方法論、政策論の中で人間をどう規定するかで説明できる。この問題については、歴代の世界の大学者が挑んできたが定説はない。しかし、人間は、私利私欲もなく、自己犠牲を重んじ、他人を思いやる善意の固まりではない。それ故、価値観、意見の相違は常に存在し、「価値前提」といえどもそれぞれの歴史的智恵(historical wisdom)を認めざるを得ないのである。したがって、対立、紛争、戦争の危険は常に存在するのである。もちろん、人間の良心に訴えることは重要である。しかし、それは宗教の役割であろう。現実を忌避し、情緒的、観念論的思考に浸るだけでは問題は解決しない。混迷の時代だからこそ、現実主義的アプローチが必要なのである。

かつてウィンストン・チャーチルは述べている。
「我々は戦争を避けるために、戦争のことを知らなくてはならない」
まさに至言である。

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