「あなたは、<何を>選んでいるのですか?」
2003年10月10日 00:00 : Comments (0) : Trackback (0) : このエントリーを含むはてなブックマーク

折田明子(慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科博士課程)


解散総選挙である。メディアの報道も選挙色が濃くなり、議員や候補予定者(地区支部長)もそれぞれの地域での活動を本格化させている。政治のニュースといえば、自民党総裁選や民主党・自由党の合併にまつわる話が連日取り上げられている。誰が地位を、力を得るかというかけひき。「政局」はパワーゲームであり、そこには勝ち組と負け組が存在しうる。権力を得るのは誰か。政権を取るのは誰なのか。一観客として見れば、確かに興味深いドラマだ。だが、一有権者としての我々は「何を」選ぶ「権利」を「有して」いるのかを考え直す必要があるのではないか。投票所で名前を書いた紙は、数えられ、最大の数を得た者が(小選挙区においては)その地域の代表として国会議員となる。国会とは立法府であり、国の三権の一角であることを有権者は忘れてはいまいか。立法府は行政の根拠となる法律を定める機関であり、政局ゲームの場ではないはずだ。

我々は「何」を選んでいるのか。筆者の出馬経験も踏まえ、2つの視点から述べたい。

【メディアによるキーワード】
選挙のたびにキーワードが出現する。2000年の衆議院議員選挙では「民主党ブーム」があり、2001年の参議院議員選挙は「小泉旋風」。2002年の補欠選挙では「無党派・無所属」というキーワードがメディアを賑わせた。こうした言葉によって有権者の行動が変わったのか、それとも有権者とメディアがともに作りだした現象が言葉になっているのかは判断できないが、選挙結果が言葉を体現しているのは確かなようだ。

今現在紙面をにぎわせているのは「マニフェスト(政権公約)」という言葉である。これまでの「公約」が柱となる「戦略」であるとすれば、マニフェストはいわば具体的な達成目標を掲げた「重点計画書」だと言えよう。民主党では公認候補予定者にマニフェストの承諾書を出させると言う。この政策を見よ、この「計画書」を見よ、というマニフェストを示すことによるメッセージは果たして有権者に届くのか。現実的に言いかえれば、票としてのフィードバックを得られるのか。告示前にそれぞれの党や候補者のマニフェストを取り寄せ、詳細に検討し、投票する有権者がいかほど存在するのか。

メディアはある意味暴力的に、そして断定的な情報を有権者に対して提供する。マニフェストでいえば、マニフェストの質やその比較、国全体のグランドデザインという視点は欠けている。単にマニフェストの有無を政策の評価にすりかえてはいないだろうか。昨年も同様のことはあった。政党不信の風潮の中、無所属であることをウリにした候補者らがいた。だが実際には、わが国の国会では、委員や本会議及び委員会での質疑時間の割り当てをはじめとするあらゆる議事運営が、会はの勢力を基準として行われる。つまり、無所属の議員は、多数の議員によって構成される政党の協力を得ない限り、独自には国会では殆ど活動できない。この事実を踏まえない「政党不信」の批判ばかりがメディアを飛び交った結果、どれだけの有権者が、無所属議員の限界を知った上での投票行動を取っただろうか。確かにメディアが提供するサマリは分かりやすい。政治への関心の入り口にもなりうるだろう。だが、事実の片面のみが示されている場合は要注意だ。分かりやすい言葉ほど、その後ろに存在する意味や事実を知らなければ、我々は一体「何を」選んでいるのかを見失う。

【選挙というパフォーマンス】
 告示後の選挙活動期間といえば、多くの方は街宣車が連呼する名前や、通勤時に駅でのぼりの中に立つ候補者との握手や、送られてくる公選はがきなどをイメージされるだろう。配布される白黒の選挙公報は「いかに目立つか」のデザインで埋め尽くされ、その中から投票すべき候補を選ぶ。そして、「気が向けば」投票所に向かう、と言う者は少なくない。

ここで候補者というものについて考えたい。候補者は同時に、一人の住民であり、個人であるのだ。一人の個人がゼロから始めて、選挙区において数万の人間に名前を覚えさせ、そして書かせなければならない。「ドブ板」と言われるように、まさに一枚一枚のドブ板を踏みしめながら一人一人に会い、握手し、名前を覚えてもらい、そして「あんたに入れるよ」という確証を得なければならない。時には、複数の票を取りまとめるとされる様々な組織(企業、組合、宗教団体等)に挨拶し、参加をする。ハガキやFAXで知り合いを紹介してもらい、紹介者の名前でダメ押しのお願いをする。公選法で定められた枚数のビラに証紙を貼り、告示前に情報を詰め込んだwebサイトを置けば、あとはいわば「お祭り騒ぎ」のパフォーマンスが始まる。名前の連呼。駅での挨拶。公選法すれすれの戦術で各陣営がしのぎを削る。

そこに「政策」が現れる余地は、残念ながら殆どない。駅に立つ候補者の言葉を覚えているだろうか?5秒で通り過ぎる人間に言えるのは、自分の名前のみである。運良く乗り物待ちの人たちに握手することができても、せいぜいできるのはビジュアル性を意識したビラを手渡すことくらいだ。候補者同士が意見をぶつけ合う、公開討論会は、公選法により選挙期間中は開催することはできない。じっくりと有権者と話す機会があるとすれば、それは主に夜間に開かれる「ミニ集会」くらいであろうか。

「政策」が訴えられなければ、票を集めるために候補者(及びその選対)は、文字通り何でもする。目立たねば、有権者の目に止まらねば、名前を書いてもらえないのだから。マスコットキャラクターを作る、スタッフで同じ服を着る、自転車に乗る、雨の中傘をささずに立つ、街宣車にハコ乗りする、商店街を練り歩く、握手○万人作戦等、各陣営はパフォーマンスにほぼ全力を尽くす。そうしたパフォーマンスは、時には冷ややかな視線も浴びる。それでも選挙からパフォーマンスがなくならないのはなぜか。結局は、それが票を集める最も近道であるという蓄積があるからであろう。1人でも多くの票を取らねば、勝てない。票をいかに集めるか。キレイゴトでは小選挙区におけるトップの得票、すなわち立法府で仕事をする資格が得られない。立法府の「議員」としての仕事の資格を得るために政策を語ろうとしても、それを伝える場もなければ、それを投票における判断基準にされる保障もない以上、むしろ政策を語ることが立法府から遠ざかってしまうという矛盾が起こる。言い換えれば、有権者が何を持って候補者を評価し、そして「何を」選んでいるのかの自覚が生まれない以上、選挙のスタイルは変わらないだろう。

なお、当然のことだが、選挙期間中も行政の機能は停止していない。多くの「施策」は選挙期間中も官公庁によって進められる。立法府だけがその活動を一時停止し、我々の代表という肩書きを持った、新たな構成員を選ぼうとしているにすぎない。我々は「何を」選ぶのだろうか。
(ako@sfc.wide.ad.jp)

*1975年生。慶大政策・メディア研究科修士課程を修了後会社勤務を経て、同研究科特別研究助手としてIT戦略本部委員の政策スタッフを務める。2002年神奈川8区衆議院補欠選挙に民主党公募により出馬。現在は同研究科博士課程に在籍。