大串正樹(北陸先端科学技術大学院大学知識科学研究科助手)
マイケル・オークショット(Oakeshott, 1962)は、『政治における合理主義』という論文の中で「人間のあらゆる活動は、知を要素としている。そしてこの知は例外なく二つの種類からなっており、その双方がどんな現実の活動にも含まれている」として、「技術知」と「実践知」という概念を示した。「技術知」とは、意図的に学び、記憶し、そしていわゆる実践に移され諸ルールへと定式化される知識であり、全ての実践活動に含まれるものである。そして「実践知」とは、使用のうちにのみある知識で反省的なものではなく、ルールに定式化することができない知識を指す。
そしてオークショットは、合理主義がこの「実践知」を排除する、という。さらに、これを「合理主義者の確実性に対する執着」から来るものとして批判をする。彼に言わせれば、政治とは「常に伝統的なもの、状況的なもの、移りゆくものが血管のように走っている」のであり「合理主義にもっとも馴染まない世界」なのである。
このように政治を対象とする学問は、合理主義から次第に制度論的考察やリアリズムを経て科学化の道を歩むことになる。しかし解釈中心の議論では、新たな知識についての議論も、また知識を生み出すための方法論についての議論も、その遡上には登らない。これは現代の政治学に多大な影響を与えたデヴィット・イーストン(Easton, 1965)の政治システムモデルの呪縛から、いまだに離れられないでいるのかも知れない。
イーストンは「政治的相互作用を他の社会的相互作用から区別するものは、政治的相互作用が社会に対する諸価値の権威的配分を強く志向していることである。したがって、政治研究は、この拘束的、権威的配分を決定し、実行する社会における相互作用の体系を理解しようとするものであろう」と述べている。このように政治の役割が既存の価値の配分でしかないという解釈からは、新たなコンセプトは生まれてこない。しかし現代社会で求められているものは、政策という新たなコンセプトや知識、つまりは「価値」の創造であり、そのための有効な方法論なのである。
この価値について、マックス・ヴェーバー(Weber, 1904)は「価値自由」という概念を示しており、研究者の価値観そのものを否定するのではなく「事実判断」と「価値判断」を科学的根拠に基づいて明確に区別する謙虚さを持つべきだという主張をしている。つまり、政治が科学を志向する以上は「価値」に対して距離を置くべきである、という考え方である。
しかし具体的な政策過程の議論となると、これは単なる「事実判断」の問題ではなく「どのような社会を創りたいのか」という絶対的な「価値判断」の問題になってくる。したがって前提としての「価値観」を考慮しなければ、本質的な政策論議にはなり得ない。
つまり政治や政策過程を議論していく上では、これを知識という視点で捉え直して、価値というものに触れざるを得ないのではないだろうか。価値から離れた客観的認識のために科学の領域にとどまるのでは、意味がない。そもそも完全に客観的な科学の領域では、個人の信念に基づく「知識」というものを十分に議論できない。それよりはむしろ、プラグマティックに人間の営為の中から対立項を乗り越えて、新たな価値を生み出すべく、政治の「あるべき姿」を追求していく必要がある。ここに「知識科学的転回」が求められるのである。
この知識科学の基礎理論として知識創造理論がある。この理論では知識を「個人の信念やスキルを『真理』に向かって正当化していく、ダイナミックで人間的/社会的なプロセス」と定義する。つまり知識を「プロセス」として捉え、固定的な概念としないのである。その上で、すべての知識は「暗黙知」と「形式知」という異なる二つのタイプの知識に還元されるとする。「暗黙知」とは経験的に身体知として蓄積された個人的な知識を指し、言語で明確に表現・伝達することが難しいという特徴を持つ。また「形式知」とは明確な言語や数字・図表などで表現できる知識で、文書やITなどの活用により伝達・共有が比較的容易であるという特徴を持つ。これら二つのタイプの知識は相互補完的であり、暗黙知から形式知(あるいはその逆)へと変換されるプロセスを通じて、質・量ともにより豊かな知識へと高められていく。つまり知識創造とは、この一連の相互変換の発展的な繰り返し(スパイラル)によるダイナミックなプロセスをいう。
つまり政策過程を知識創造プロセスとして捉えるならば、個人の様々な経験的知識がそのまま政策へと反映されるばかりか、生み出される政策自体も実践を通じて発展的に高められていくのである。
しかし何故このような知識科学的転回が必要なのか。そこには政策科学が前提とする限界がある。これについては以下のジアンドメニコ・マヨーネ(Majone, 1989)の言葉が象徴的である。すなわち「この認識不足は、ほとんどの分析家たちが方法論に執着してしまい、決定がどのようにしてなされたのか、あるいは、その決定が公的討議の場において正当化しうるかどうかということよりも、どんな決定がなされたのかということに大きな関心を払いがちだ」という。このようにマヨーネは「決定主義」に陥ってしまった政策過程論を、すなわち、あたかも合理的選択の原理が政策決定の場でも作用するという考えを批判しているのである。
しかしその根底には政治学を超えて政策過程論や政策科学へも大きな影響を及ぼしている「諸価値の権威的配分」という先述の問題が潜んでいる。つまり、いかにして既存の価値を配分するかが検討の課題であり、ここに妥協を前提とした「説得過程」としての政治が大きな意味を持つ。合意形成においても民主主義の議論も、そして権力論に至っても、すべて価値に触れる議論ではない。このように政治学や政策過程論は新しい価値を創造する議論になっておらず、ここに知識科学のアプローチが有効なのではないだろうか。
(参考文献)
(1) Oakeshott, M. (1962) Rationalism in Politics and other essays, Methuen.(嶋津格ほか訳『政治における合理主義』勁草書房、1988)
(2) Easton, D. (1965) A Framework for Political Analysis, New Jersey: Prentice-Hall Inc.(岡村忠夫訳『政治分析の基礎』みすず書房、1968)
(3) Weber, M. (1904) Die "Objektivitat" Sozialwissenschaftlicher und Sozialpolitischer Erkenntnis,(富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』岩波書店、1998)
(4) Majone, G.. (1989) Evidence, Argument, and Persuasion in the Policy Process, New Haven: Yale University Press.(今村都南雄訳『政策過程論の視座―政策分析と議論―』三嶺書房、1998)
*1966 年兵庫県生まれ。東北大院卒。石川島播磨重工業、松下政経塾を経て、北陸先端科学技術大学院大学にてPh.D.を取得後、現職。専門は社会的知識創造、郵政事業、教育政策。主な著書に『知識国家論序説(共著)』がある。(http: //www.mskj.or.jp/profile/ogushi.html)
