「分散型政策社会」の時代に向けて−書評『政治不信の構造』(日本評論社)−
2004年12月10日 00:00 : Comments (0) : Trackback (0) : このエントリーを含むはてなブックマーク

丸楠恭一(ジョンズホプキンズ大学高等国際問題大学院客員研究員 )

 社会的問題の解決に際して、一定領域内の人々の中から何らかの形で選出された一部の代表者に公的資源の配分決定を任せる「代表制」というシステム。現代政治においてこの代表制が機能不全に陥っており、この状態を放置していては国民の脱政治化の流れが危機的レベルにまで進行する可能性がある。

 本書の著者であり『政策空間』初代編集長である佐々木孝明氏は、この「代表制の危機」が一時的ではなく趨勢的であるという基本認識に立ち、これを「社会のグローバル化」「経済の変容」「情報化」という三つの観点から説き起こし、代表制の本質に立ち返って政治を捉え直さなければ、有権者・国民が政治家・政党に対して不満・不信感を募らせている現状が的確に理解されないと主張する。佐々木氏の硬質で明快な筆致は、われわれの社会の基盤を成す「代表制」という制度が、結局のところは「信頼」という“fragile”なものに決定的に依って立っているという事実を否応なしに読者に突きつけてくる。「公的資源の配分」という現代人すべての利害に関わる代表者が、それを(原理的には)自ら選んだ有権者・国民によって信じられなくなった時、あらゆる社会的決定はおおよそ「不信の悪循環」への入り口にしかならない、ということをわれわれはすでに少なからず経験しているように思われる。

 筆者もまた、「情報化」「ネットワーク化」という視点から現代政治の構造的問題の存在を主張する一人である。社会のネットワーク化が進展し情報受発信能力が質量両面で拡散している現代社会においては、重要な情報が社会のあらゆる場に分散して存在するようになるため、政策コミュニティは情報面における相対的優位性を喪失し、政治家・官僚など「政策のプロ」は、政策形成機能の独占状態に対して恒常的に異議申し立ての洗礼を浴びざるを得ない。

 さらに言えば、代表者に対する信頼という点でここ数年の日本政治を揺るがしているのは、社会のネットワーク化に伴う「パワーの獲得・行使のパラドックス」である。著者も本書の中で一部触れているように、情報化に伴い「ネットワーク」という緩やかなつながりの原理が社会全体を覆い始めると、集団形成において自発性・非統制性の原理が強く働くようになり、その結果として、「政治という公的制御の営み」において重要な役割を果たす「パワーの獲得・行使」という行為がその統制的性格のゆえに集団構成員や一般大衆の支持・信頼を損なう要因となってしまうのである。自民党旧橋本派がその数の力のゆえに「悪役的位置づけ」を与えられてきたのも、さらにはここ数年の公職選挙において潤沢な資金と強力な支持基盤を持つとされる候補者への投票をためらう有権者心理がしばしば観察されるのも、現代政治が「ネットワーク」という、ある意味で相反する原理とのせめぎ合いを余儀なくされていることの現われと言えよう。

 さて、著者はこうした「代表制の危機」に対し、政治における政策編集機能を高め政策アイディアが政治に集まってくることを促すべく、政策秘書制度の改革、政策争点別選挙制度の導入、政策財流通市場の創設、経済財政諮問会議の改革などを解決の道筋として提言する。これらの提言はいずれも理想と現実のバランスが取れた傾聴に価するものであり、立法府、行政府、与党、野党などさまざまな立場から日本の政策コミュニティに関わってきた氏の、代表制再生に向ける厳しくも温かな眼差しが窺われる。むろん、これらの提言が実現して政治に対する信頼が再び高まるのでれば、それは望ましいことに違いない。しかしながら、政治・行政経験に乏しい理屈屋の筆者は、この点に関していささか悲観的にならざるを得ない。

 だいたいにおいて「代表制の危機」とは克服されるべきものなのだろうか。「代表制が機能する」ということ自体が、大まかに言って「代表する者(政治家)の決定した政策が代表される者(有権者)から受ける一定以上の評価」ということであるから、これはそもそも政治信頼度に強く依存している。明確な国家目標の達成に向けて限られた有為の人材を国民の代表として立法府に送り込む時代とは異なり、目指すべき目標が多様化し知識層が厚みを増した現代では、どんなに優れた「代表者」がそれなりの決定を行っても有権者の満足度は容易には高まらないし、そうした状態は制度的改革ではなかなか変化しないだろう。

 われわれはむしろ、情報化時代の代表制が本質的アンビバレンツを抱えていることを受け入れつつ、それを政策コミュニティの枠を超えて処理していく方向を取るよりないのではないか。言い換えるならば、重要な政策知識が永田町に「集まってこないこと」をむしろ積極的に評価し、社会のあらゆる場所に広く分散して存在する政策人材たちが新しい公共空間において政策の発想・立案・形成にコミットしていくことを促す意識改革が、「不信の悪循環」を断ち切る上で最も急務であるように思われる。参加意識によって自己実現欲求を満たす彼ら「政策のアマチュア」は、政策を生業としてはいないが、政策に関与する意志・能力が「プロ」に劣っているわけではない。しかも、情報化ネットワーク化の進展した現代社会では、政策コミュニティの外にあって政策に能動的に関わることのできる分野もツールも確実に増えている。政策が文字通り「みんなのもの」になってきており、政策学が「現代人の基礎教養」となり、政策形成がマクロ社会学的視点から理解されねばならない時代を迎えつつあるのであろう。

 こうした「分散型政策社会」の成立は、政府・政党・職業政治家・官僚機構など「政策のプロ」たちの役割にすでに大きな変質を迫ってきている。東大法学部における公務員志望者の漸減も霞ヶ関における中堅官僚の離職も、1970年代生まれの世代が地方議会にもたらしている新しい動きもそうした流れの一貫にあり、それらは本書が主張するところの「代表制の危機」と底流でつながっているのであろう。また、政策コミュニティにおけるリーダーシップの姿も、こうした情報化ネットワーク化の流れを受けて「対話」「共感」「フィードバック」を重視する方向を示しつつあるように思われる。

 ただ、こうした状況があくまでも一定以上に健全な政策コミュニティの存在を前提としていることは忘れるべきではない。政策コミュニティがあまりに無力化し、多くの政策人材が自らの政策を実現するうえではむしろ政策コミュニティの外部にあって社会的影響力を与える活動を自発的に行う方が良いと考えるようになってしまうと、政治・行政の大幅な質的低下が免れず、現代人の公的な営みを支える制度的インフラが崩壊状態と化してしまう。その意味において、著者の提言するような諸改革から決して目を背けてはなるまい。分散型政策社会の実現は、一部批判勢力の主張するような「永田町や霞ヶ関のカウンター・ムーブメント」ではないのである。


*1958年生。東京大学教養学部卒業。プリンストン大学公共・国際大学院修了。三菱総合研究所研究員、ブリティッシュ・コロンビア大学研究員等を経て、目白大学教授。専門は国際日本研究、公共政策研究。