―トリックルダウンの有効性の検証―
石田 彩佳(慶應義塾大学総合政策学部 学生)
インドにおける経済政策は、一貫して貧困解消を主軸としてきた。1991年よりインドは、独立以来の閉鎖・計画経済体制を180度転換し、開放市場経済体制へ移行し著しい経済発展を遂げた。しかしながら、その貧困対策は一貫してトリックルダウン仮説に基づく経済政策を採用しており、その姿勢は市場自由化以降も変わっていない。
トリックルダウンに基づいた貧困認識
トリックルダウンとは、『経済成長の恩恵が、まず裕福層にもたらされ、その後貧困層にも波及していく(滴り落ちる=trickle)』という新古典派を代表する仮説である。この仮説に基づくと、経済政策のアプローチは、一国全体の経済水準の向上を主眼に置くものとなり、国内の貧困層を集中的にターゲットとしたミクロ的なアプローチはとられにくい。近年のインド研究では、トリックルダウンに基づいた経済政策は機能した(貧困は解消された)とする説と、機能せずにむしろ貧困を悪化させたとの説のどちらも有力に存在する。こうした見識のズレは、「貧困」の定義と貧困指標のとり方の相違から発生する。
そもそも「貧困」とはなにか。学者や文脈によりその語法は異なり定義が多用されているが、ここでは相対的格差の存在を重視し、「人間として与えられる必要性のある機会に十分にアクセスできない状態」として定義することとする。なぜなら、相対的不平等の存在は必要な機会に対するアクセス可能性をより困難にするためである。たとえば所得・賃金の相対的格差が生じると、上流階層の生活水準の向上によって国内の物価水準の上昇を引き起こし、結果として最貧困層の、モノやサービスにアクセスする機会をさらに奪うこととなる。そこで、インドにおける経済成長が相対的格差の拡大・縮小にどのように影響を与えたかという分析を通じて、インドにおけるトリックルダウンの有効性を検証した。
有効性の検証
分析手法としては、貧困指標(ジニ係数、貧困者比率)、所得関連指標(賃金・生産力・家計支出)、BN指標(識字率)をそれぞれ被説明変数、経済成長指標を説明変数として単回帰、重回帰、対数回帰分析を行った。さらに、各母集団において相対的格差にある人々に対する影響の差異―相対的貧困−にも焦点をあてるため、階層別データを用いることに注意を払った。具体的には、複数の格差を網羅的に分析するため、都市−農村間、産業セクター間、ジェンダー間格差を分析した。結果は以下の通りである。
まず貧困指標を通じて都市―農村間の格差を検証したところ、46年以降の経済政策は都市部、農村部ともにジニ係数、貧困者比率を改善したとは言い難く、さらに両者の格差も縮小されていないことが明らかになった。次に、産業セクター間の分析を賃金、生産力、家計支出から検証した。その結果、農業・工業部門における賃金上昇は、どちらも一人当たりGDPの上昇から説明できることが明らかになったが、そのスピードは工業部門の方が高い。
また賃金階差の分析においては、GDPの成長が農業部門と工業部門の賃金格差(即ち所得格差)を拡大することが実証された。これは生産力からも説明可能で、工業部門、サービス産業の生産力に比較して農業部門の生産力に対する総生産力上昇の影響はきわめて小さい。ゆえに、工業やサービス産業と比して農業部門へのトリックルダウンが効果的に機能したとは言えない。他方で、識字率を用いて、BN指標に対する一人あたりGDPの伸長の影響力を分析したところ、二者の間には非常に高い正の相関がみられた。しかし、ここからは、残差のトレンド特性を原因として、明確な因果関係を説明できない。さらに、男女間識字率格差に関しても、若年代において若干その格差が縮小する方向であるものの、成人においてはまったく横ばいであった。男子識字率が一単位変化したときの女子識字率の変化分を表す弾力性との関係においても、残差のトレンドからGDPとの関係は説明できなかった。
トリックルダウンは機能してこなかった
以上の分析結果を考察すると、貧困指標や、生産力・賃金といった所得関連指標から加工したデータとGDP(あるいは1人あたりGDP)の関係においては、トリックルダウンが機能したという肯定的な結果は得られなかったのに加え、識字率と経済成長の関係においても、経済成長が直接的に男女間識字率格差を縮小する要因にはなり得なかった。全体を概観すると効果的に見えるものですら、格差を詳細に分析すると、最貧困層にトリックルダウンが機能したとは言えない。さらに、いくつかの分析結果からは、GDPの成長が格差を拡大したこともわかった。これは、人間として与えられる必要性のある機会に十分にアクセスできる状態への到達が、より困難になることを示している。即ち、トリックルダウンに基づく経済政策が貧困層の「貧困化」をさらに加速したとも換言できる。最貧困層の生活水準向上を軽視し経済成長を優先させると、トリックルダウンが機能するどころか、貧困の激化にもつながりかねないのである。
シン政権の新政策?
昨年4月、8年ぶりに与党の座を取り戻した国民会議派のシン政権が発表したCMP (Common Minimum Programme)は、経済成長や輸出促進といった前政権の中心課題よりも、農業従事者や指定カースト・アンタッチャブルの社会進出・女性の地位向上といった観点から、農村分野の開拓・教育・雇用・福祉制度などを中心に据えた政策となっている。これは、構造主義や新古典派アプローチからアマルティア=センの思想を発展させた改良主義的なアプローチ方法への政策転換ともいえよう。今後、シン政権がCPMに適った貧困政策を行っていくかどうか、注目していく必要があろう。
(ayaca@jcom.home.ne.jp)
<参考文献>
絵所秀紀・山崎幸治[1998]『開発と貧困』アジア経済研究所/絵所秀紀[2002]『開発経済学とインド-独立後インドの経済思想』日本評論社/G.M.Meier・J.E.Stiglitz[2003]『開発経済学の潮流』シュプリンガー・フェアラーク社/山形辰史[2002]『貧困削減-グローバル化は貧困を生むか』(アジ研ワールドトレンド第8巻第
12号)、[2004]『特集 新経済発展論―経済史比
較から見えるもの』(アジ研ワールドトレンド第
10巻第10号)
統計・データ
インド経済・産業ハンドブック[2004] /WDI(World Development Indicators), WB/Economic Survey 2003-2004, India/Ozeler,B.,G,Datt, and M.Ravillion[1996] A Database on Poverty and Growth in India, WB
*慶應義塾大学総合政策学部に在籍中。専攻は開発経済学、映像制作。
