ジェンダーという言葉が消える?
2005年11月10日 00:00 : Comments (0) : Trackback (0) : このエントリーを含むはてなブックマーク

折田 明子(慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科後期博士課程)


わが国の男女共同参画計画において、「ジェンダー」という言葉を残すか削除するかという議論があるという報道があった(10月4日朝日新聞)。ジェンダーという言葉は、社会的・文化的な性別という意味で用いられている言葉である。この言葉が誤解を招くとして、自民党の山谷えり子議員が直してほしいと訴えたという。誤解を招く言葉であるなら、むしろジェンダーという言葉を残すことで、議論の糸口にすべきではないだろうか、と私は考える。

これまでも、自民党の「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクト」では、現行のジェンダーフリー教育が身体の性差もなくしていることを危惧し、男女混合での騎馬戦、身体検査などを指摘してきた。ジェンダーという言葉に強い反発を見せるわりには、このプロジェクトのサイトを含め、お粗末にも性差という言葉は多義的に用いられている。例えば、就職の機会均等は男女ともに保障されるべきだが、それは更衣室を一緒にするというレベルとは違う。さらに、ジェンダーフリーが家族の崩壊につながるかのように書かれているが、これは「妻」が働くことによって育児や介護に専念できないことや、夫婦別姓などを連想した結果だろうか。

男女の身体の違いが、なぜか社会的な圧力となって個人の生き方を狭めてしまうことがある。男だから泣くな、女だから学はいらない、というネガティ
ブな決めつけに対し、それを表す言葉や解消に向けた動きを表す言葉として、ジェンダーという言葉は使われる。和訳できない言葉であっても、状況に名前を付けることは重要なプロセスだ(セクハラやDVはいい例だろう)。

諸橋泰樹著『ジェンダーの語られ方、メディアのつくられ方』によれば、家庭、学校、メディアと性別役割分担が作られていくという。生まれた子が男なら跡継ぎ、女なら嫁にやる前提が存在する。子どもに対するダブルスタンダードは生まれたときから存在し、さらに男の子が泣けば叱られ、女の子が木登りをすればおてんばだと叱られる。誰もが通わされる学校で、さらに男女の役割は固定化されていく。個人的な経験だが、私の時代は家庭科と技術科が男女別に分かれており、それが当然だった。また、「以下の絵からお父さんの仕事、お母さんの仕事を選びなさい」というテスト問題があったことも覚えている。メディアは新聞、テレビ、雑誌を通じて期待される男女の役割を再生産する。特に、メディアには予言の自己成就性と呼ばれるものがある。一旦メディアが取り上げたものは、それが多数派の意見のように思え、異なる意見を持つ者は自分がマイノリティであると自覚し、態度を変えることすらある、ということだ。
 
誤解があるのならば、議論をすればいい。作られた性差と生来の性差について。男もしくは女に生まれたことの生きづらさと生きやすさについて、解決すべきことはまだまだある。議論のきっかけとなりうる言葉を、やすやすと削除すべきではない。
ako@sfc.wide.ad.jp

・過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクト(自由民主党)
http://www.jimin.jp/jimin/info/jender/index.html


*1975年生まれ。慶應義塾大学政策・メディア研究科修士課程修了後、外資系企業勤務、大学助手を経て、神奈川県8区衆議院議員補欠選挙に民主党の公募候補として立候補(2002年)。現在は政策・メディア研究科博士課程に在籍中。COE研究員(RA)。