◎西澤真理子((株)リテラシー代表・シュトゥットガルト大学環境技術社会学科研究員)
「ゼロリスク」を追い求める傾向が強まっているように感じる。象徴的なケースがBSE対策であろう。
日本は年間30億円の予算を組み、食肉牛の全頭の検査を行っている。しかし、科学的には若齢牛の検査については不要で、全頭検査費用のうち、少なくとも4億円が無駄に使われている。これについて政府は、消費者の安心を担保するために全頭検査を行っているとの見解である。
「ゼロリスク」や「安心」を求める社会の風潮は、90年代後半から顕著になる。これは、バブル社会の終焉に伴う日本型雇用の崩壊を始めとする、日本社会の急激な構造的転換に伴う社会不安の現象と言える。これは自殺者、うつ患者の増加、また、薬物など様々な依存症の急増など、社会的病理現象などとも密接に関わっている(岩波:2005)。
さて、「ゼロリスク」・「安心」を担保する政策があるのか、というと、それは厳密にいうとない。科学的にゼロ・リスクというのは不可能で、また、何をもって安心なのかは、個人がどう感じるかによって異なるからである。ただ、社会全体の福利を考え、社会の逼迫した問題を解決するため、社会的「安心」のための公共政策は率先して行われる必要がある。またその政策にかかるコストは費用対効果という点からも妥当でないとならない。
この点から見ると、全頭検査は適切な政策とはいえない。そこで、社会的安心を担保するために、この予算を他の政策に有効に使うことはできないのだろうか。例えば、自殺対策である。
日本の自殺率は、他の先進国と比べて突出している。自殺者は、バブルが崩壊した1998年に前年度の26,000人強から、35,000人に急増した。そして、過去8年の間、その数はほとんど減少していない。
男性の自殺と失業は密接に関連しているが、日本より失業率がはるかに高い国(10%を超える国、例えばドイツ、ベルギーなどがある)と比べても、日本の自殺率は高い。とりわけ、40代から50代の働き盛りの男性の自殺が全体の4割を占め、家庭の大黒柱であるお父さんが自ら命を絶っている現状は、日本社会の深い病理である。
近年の自殺の多さの背景には、日本の社会制度や社会構造の問題がある。日本の失業保険は、最長1年で、中高年の失業者に手厚い欧州の国の制度から比べると、脆弱である。また、自殺とうつは密接に関わっているが、厚生労働省の資料によると、これまで自殺を試みた人の7割以上に精神障害があり、その半数がうつ患者で、そのうち医療機関で治療を受けていた人は4人に1人と、ごく少数であった。さらに、うつ病発症は「サービス残業」に象徴されるような長時間勤務という、日本独特の過酷な勤務体制に密接に関係しているが、実際、精神障害で労災認定された過労自殺のケースの約半数が月100時間以上の残業を行っていたことがわかった。
最近、政府は自殺問題に本格的に取り組むと発表し、対策予算を昨年の7.8億円から9.1億円に増額した。それでもこの予算は、異様ともいえる日本での自殺者の多さを鑑みれば少ない。このような状況を少しでも改善するために、BSE政策において「安心」対策として充てられている4億円を、職場の産業医の適切な配置や再雇用対策など、自殺防止のための予算としてもっと有効に使えないものであろうかと切に感じる。
政府が、個々人の「安心」を担保することは難しい。しかし、個人、家族が幸せに、人間らしい生活を送れる労働環境を整えることにより、社会全体がゆったりと、そして、安心して生活できる雰囲気が培われるのでは、と思う。
参考文献
岩波明(2006)「狂気の偽装:精神科医の臨床報告」(新潮社)。
