インドにおける結核対策の政策分析

2007年04月13日 00:00 : Trackback (0) : このエントリーを含むはてなブックマーク

◎逢坂美喜子(TATA Institute of Social Sciencesソーシャルワーク研究科修士課程)+訳:北村健(政策空間編集部 編集委員)


はじめに[1]

国民への医療と福祉の提供は、いかなる国のいかなる社会においても主要な公共的課題でありつづけてきた。今また、国連の『ミレニアム開発目標』が疾病との戦いを掲げているように(UNDP、 2000)、健康であることは「権利」であり、あらゆる人間生活の基礎に他ならないとの認識が広く共有されるようになっている。

いまなお世界の結核患者の五分の一を生み出しているインド社会であるが、今回、筆者は実地研修生としてムンバイにおける結核対策の最前線を観察する機会に恵まれた。本論では、そこで得られた成果と既存の結核対策プログラムの分析に基づいて、社会のあらゆる人々が「権利」を実現してゆくための方策と、ソーシャルワーカーの果たしうる役割について検討してゆく。

Marginalized group(社会的弱者)の病

結核対策について理解するためには何よりも結核という病への理解が欠かせないが、その手がかりとなるのが「Marginalized group」の概念である。

経済的困窮のために治療費用が賄えないケースは少なくないにせよ、治療へのアクセスが滞る理由はそれだけに限らない。一度治療を始めたにもかかわらず自主的に治療を放棄するケースは多々見られる。若年者への治療は家族の管理下で行われていたり、宗教上の理由から休日の服薬が禁じられ、治療の障害となることもある。さらに、結核が不治の病と見なされてきたこと、継続的な治療が家計を圧迫することなどから[2]、結核患者は社会的なスティグマにも曝されている。それが感染後の診療を遅らせる大きな要因になっている。

経済的な困窮や社会の理解不足、慣習や性別といった様々な要因によって、特定の人々が健康でよりよい生活から社会的に疎外されており、結果的にさらなる感染の拡大要因となっている。この点で結核は「社会的弱者の病」といえよう。そのためミクロレベルの結核対策においては、感染の予防と感染後の治療の双方の場面で、そのような人々への取り組みが鍵となる。

インド政府も結核対策として公的な無償診療などを手がけているが、その規模は依然として小さなものである。であればこそ、公的な機関のみではなく、各種の民間団体との提携による対策の実施が意義を有する。そこで、まずはインドの公的な結核対策について概説する。

インドにおける公的な結核対策

独立の達成以降、インド政府は結核を公衆衛生の最重要課題の一つとみなしており、1962年には世界保健機構の世界結核対策プログラムに基づいて国家結核対策プログラム(NTP)を制定し、国家レベルと地方レベル双方で結核対策のインフラを整備してきた。しかし1970年代の初頭にもなると、その制度的な欠陥が目につくようになる。対策の実施が十分いきとどいたものになっていなかったがゆえに、結核による犠牲者の減少がみられなかったのである(Narayan)。1975年と1988年に実施された国家結核対策プログラムの政策評価研究も、わずか20パーセントの患者しか治療を完結できていないと指摘している。 (Sarin&Dey,1995) 。

国家結核対策プログラム(NTP)の反省をうけて、1997年5月、新たに改訂版国家結核管理プログラム(RNTCP)が策定された。その具体的な政策目標には以下の三点が掲げられている。

(1)喀痰の症状が見られる罹患者の70パーセントを早期に発見し、患者の85パーセントを治癒させることを継続して達成する
(2)オペレーションズリサーチとフィールドワークを通じて新たな対策技術の開発を支援し、そしてその適時・適切な使用を可能にする
(3)結核の予防と改訂版国家結核管理プログラムの実施範囲・対象の拡大のために公的機関と私的機関とが協同する

インド政府結核管理局によれば改訂版国家結核管理プログラムは2006年の3月時点で632の行政区域の11億1400万人を対象とするまでになっており、その進展はめざましいものがある。

また、改訂版国家結核管理プログラムは国際的な結核対策への取り組みとも緊密に連携しており、国際機関と国家政府、そして州政府間で協力関係が築かれている。『ミレニアム開発目標』の掲げた「疾病の撲滅」プログラムの実施手法であるDOTS(直接監視下短期化学療法)を採用していることもその一例である。


図1:結核対策の実施構造

ミクロレベルの結核対策

DOTS(直接監視下短期化学療法 Directly Observed Treatment Shortcourse)は患者管理手法の一つであり、無償で治療薬を配布するだけではなく、喀痰検査や往診、健康保健教育や服薬の直接的な監督などを含めた患者やその社会に直接相対する結核対策である。(注3)

筆者の研修先となった私営病院においてもDOTSに基づいた結核診療を提供していた。そこでの2002年から2003年にかけての結核患者は352名であり、その内、完治した者が209名、治療継続中の者が115名、治療の継続を放棄したものが19名、そして3名が死亡している。

筆者の研修先の病院では定期的に健康キャンプ(臨時の保健所のようなもの)を地方の農村で行う試みも行われていた。それに加えて、多様な利害関係者とのコミュニケーションも欠かしてはいない。ムンバイ市政府への監督と報告に限らず、医療ソーシャルワーカーが地域の医療従事者へ往診を依頼したり、数多くの福祉関連の会議に参加している。

だが、その中でももっとも重要でなおかつ効果の高い活動は地域社会での啓蒙活動、すなわち健康保健教育health educationに他ならない。結核の犠牲者を減らしてゆくためには、個人の心がけとともに家族や近隣社会の理解が欠かせないからだ。

公衆衛生政策における官民パートナーシップ

近年の結核対策の一つの傾向として脱中央政府化と地域社会中心のケアの重視がみてとれる。これまでも既存の結核対策の反省点として

(1)地域社会への浸透
(2)健康保健教育とその啓蒙
(3)DOTSと結核の院内ケアの提供
(4)結核対策のユニットモデル
(5)対策プログラム策定
(6)プログラムの実施
(7)担当者の訓練と評価、

などの領域において民間団体の取り込みが十分でないことが指摘されてきた。

しかし2000年、結核対策において公的機関と民間団体が提携し、共通の政策目標=結核の撲滅を達成してゆくことをめざして「結核対策パートナーシップ」が発表された。今日では、およそ550のNGOと200の私的な活動家たちが改訂版国家結核管理プログラム(RNTCP)に参画している(筆者の実地研修先の私営病院もその一つ)。そのような非公的セクターの活躍が特に期待できる分野として、@健康保険教育、ADOTSの提供、B計画策定、C訓練、D実施と評価、などがあるだろう。またNGOの参画を後押しする様々なスキームも徐々に用意されつつある。

おわりに

以上のように、インドにおける結核対策は公的機関中心の公衆衛生型の発想に基づいたものから、民間団体と提携し、より住民に近い場所での対策に力をいれたものに変化してきている。社会的弱者の病である結核に臨むうえで、このようなミクロな政策対応には期待しうる。もちろん、公的機関の果たすべき役割が小さくなったわけではなく、特に世界最低レベルの医療保険関連予算を世界保健機構が目標として掲げる「対GDP比5パーセント」レベルまで改善することは早晩達成されなければならない。

今後、筆者のようなソーシャルワーカーが結核対策において果たしうる役割は小さくないはずだ。ただ単にDOTSの実施要員であるだけではなく、政策と実践の間になお残るギャップを埋めてゆく実践者として、地域での健康保健教育や患者への財政支援のより効果的な手段を考えていくことが必要である。

訳者注

[1]本論はOsaka、Mikiko (2007) Policy Analysis of TB Controlの抄訳である。原論文は近年のインドにおける結核対策の動向についてのレポートであり、抄訳に際しては専門外の読者のために構成を全面的に改組した。またインド政府における予算配分状況や結核患者、 ムンバイ市職員へのインタビューの要旨などは割愛し、参考文献は本文中に直接記したものに限定した。
[2]この「コスト」には診療費用・薬代等、治療への一次的な費用だけでなく、家族の付き添いや病院への送迎などによる二次的な費用も含む。Narayanが指摘しているように、治療の二次的コストは時として一次的コストよりも大きなものとなる
[3]訳出にあたり、DOTSについての日本語による解説は、財団法人結核予防協会「DOTS戦略とは?」(http://www.jatahq.org/kokusai/kokusaika/kokusai%20.htm)を参考にした。

参考文献

•United Nations Development Programme (2000) MillenniumDevelopmentGoals、(http://www.undp.org/mdg/goallist.shtml)
•National Institute of Health and Family Welfare (National Documentation Centre) REVISED NATIONAL TUBERCULOSIS CONTROL PROGRAMME (RNTCP) DOTS STRATEGY
•Nalayan、 Thelma (unknown) Discussion: A violation of citizens’ rights : The health sector and tuberculosis -One’s understanding of the problem of tuberculosis affects the choice of intervention strategies、 Indian Journal of Medical Ethics、
•Sarin、 Rohit & Dey、 L.B.S;(1995) INDIAN NATIONAL TUBERCULOSIS PROGRAMME REVISED STRATEGY、 Original Articles、 Indian Journal of Tuberculosis、 1995、 42、 95