―北海道浦河町「べてるの家」の事例から考える―
◎中俣保志(所属:香川短期大学経営情報科准教授)
社会福祉法人「浦河べてるの家」との出会い
大学院時代の知人から、「べてるの家」という実践を紹介された。すでにTBS系列のドキュメント番組でも同実践が紹介されており、知人によれば、「精神障害者の人たちが地域社会との共生を模索している興味深い実践」ということだった。現地に行って医療側のキーパーソンである医師の川村敏明氏(浦河赤十字病院精神科部長)と向谷地生良氏(当時同病院ソーシャルワーカー)とにインタビューしたのが、今から7年前のことである。
浦河町は北海道東南部日高管内の太平洋側に位置し近隣には歌謡曲で有名になった襟裳岬がある。漁業と競走馬飼育業が基幹産業で人口は1万5000人ほどの町である。札幌からバスで4時間あまり、JRを使うと在来線を乗り継いで5時間はかかる。
インタビュー当日は前述した川村氏、向谷地氏の他に精神「障害」者である当事者の方々7名が対応して下さった。入退院を繰り返さざるを得ない当事者の苦悩を前提にしたとき表面的な「社会復帰」ではなく、「社会進出」という視点から当事者と地域との共生を模索せざるを得ない、という強い意志のようなものを感じた。このことから「この実践は本物である(何を持って「本物」かはさておいて)」と私は確信した。と同時に「かかわった以上は自分自身にも大きな影響を与える実践になる」というある種の困惑も感じた。自分の感受性のふり幅を自覚させるような実践に巡り合うことも少ないと思うが、私の場合は幸か不幸かそのような体験が数回あったのだが、「べてるの家」との「遭遇」でもそのようなことを感じることが出来た。
「武装放棄」と「べてるの家」のコミュニティ
「べてるの家」では、上述した「社会進出」以外にも、「三度の飯よりミーティング」「手よりも口を動かせ」「安心してサボれる職場作り」「弱さの情報公開」等、今までの実践の「苦悩」が凝縮されたようなキーワードが大事にされている。インタビューの当日も、当事者の早坂潔氏や松本寛氏が、自身が「べてるの家」にたどり着くまでの成長過程―それは、差別、いじめ、家族との問題、自身の葛藤、まさに筆舌に尽くしがたい経験であるのだが―独特のユーモアで生き生きと語ってくれた(通常当事者の方は匿名化されるのだが、べてるの家では顕名化される)。そのときに松本氏が自身のエピソードとして「錦の旗を揚げず白旗揚げた」ということを語ってくれた。高校を卒業し上京、あることがきっかけで「発病」した松本氏は、「病気」とともに転がり込むように「べてるの家」にたどり着く。その松本氏も、過疎地域での生活に疲れ「べてるの家」から「逃走」をはかり、その後逃走先の札幌で発病、病院に担ぎ込まれた。そこで担当医から言われたのは「松本さんに紹介したいところがあるんです。浦河町の…べてるの家と言うところで先駆的な取り組みがあって…」。そのときに「べてるの家とともに生きる覚悟」が松本氏の中でかたまったという。「べてるの家」で生活していると自分の中にあるバリアみたいなものと向き合わざるを得ないという。そのバリアを自覚して「弱い自分」を認めたとき、自身の武装解除をして自分自身に白旗を揚げたとき、同じような境遇でもがき苦悩している「仲間」の存在が感じられるようになったという。「べてるの家」で語られるキーワードには、このような無数の「苦悩」の結晶のようなものがこめられている。
「弱さを絆に」実践化できた背景
「社会福祉法人浦河べてるの家」は、組織的には、小規模通所授産施設・小規模授産施設・グループホームの三つの部門の総称である。関係する当事者は約160名ほどで、そのうち20名ほどがスタッフや施設長、評議員に就任している。母体となったのは1978年に設立された「どんぐりの会」という回復者グループで、1984年から「べてるの家」と名づけられるようになった。現在は精神障害だけでなくさまざまな「障害」を持つ人々が「べてるの家」の活動に参加している。
同実践のキーパーソンである川村氏は「当時精神科の医療が『囲療』『管護』と呼ばれる中、病院の中で二次的な『病』を誘発するようなことはすべきでないと思った」と上述のインタビュー時に語ってくれた。向谷地氏はアルコール依存症者や統合失調症で苦しむ早坂潔氏(当事者側のキーパーソン)とのやり取りの中で、「社会から隔離して病院で『我慢』をさせて、一番ストレスのたまった状態で社会に『帰す』」矛盾を抱えた医療の現実や、社会的歴史的な差別、家族問題という患者を取り巻く出口の見えない課題の連鎖と当事者自身が「病」に困惑し苦悩していることを痛感したという。「べてるの家」の実践からうかがえるのは、「病」とともにある当事者の「苦悩」は彼ら彼女らにとっても捨てがたい人生の一部であって、その「苦悩」を取り去ることで彼らの「苦悩」を先回りしても何も解決しないしまた取り去ることは出来ないという徹底した「当事者本位」の姿勢と理解できるのではないだろうか。
ある種絶望するしかない自分の人生と向き合うことで、当事者の方々は消沈しているだろうか。「べてるの家」の実践を見る限り答えは否である。「三度の飯よりミーティング」というキーワードどおり、「病とのかかわり方」をめぐる生き生きとしたミーティングが日常化している。
「○○さんと△△さん(当事者同士のカップル)は別れたほうがいいです。いつも妄想や爆発がひどくなるから〜」。出口の見えない課題を前に、ぎょっとするような話題も笑顔で話せる仲間を見つけられるからこそ、生き生きとした実践なのかもしれない。
「安心して絶望できる社会」創りの新しい挑戦とその核になるもの
「当事者の苦悩を先回りして取り除かない」、「当事者の苦悩を取り戻す」そういった支援姿勢を感じさせる「べてるの家」の実践がスタートして、30年近く経過している。その中で、いくつもの社会的実験とも言える新しい挑戦が生み出されてきた。
現在は当事者の数が150人以上、全国各地から集ってきている。新しく集った層によって、新たな取り組みも行ってきた。浦河保健所主催の思春期相談事業では、不登校やAC(アダルト・チルドレン)と診断された経験のある若手当事者が地元高校生たちと交流や合宿を行うことで、大人に「相談」することの大切さをともに学んだ。
またICT(Information Communication Technology)技術に強い若手当事者を中心に「べてるの家」オリジナルのテレビ会議システムによる相談事業のシステム化・地域SNSの活用なども取り組まれている。「べてるの家」がこれまで培ってきた「安心して絶望できる社会」をさまざまなツールによって実践していくという姿勢は今後もなお発展していくだろう。
これら新しい取り組みの原動力とはなんだろうか。スタッフとして活躍する若手の当事者に自身が「べてるの家」で活躍できている理由をたずねると、「仲間」という答えが一番多かった。「べてるの家はぐちゃぐちゃしているけど結局仲間の大切さを感じる」、「苦しいのは自分自身でないことを理解させてくれた仲間がいる」こういった「仲間」意識を感じさせてくれる要因としては、医療サイドだけでなく、当事者の先輩格である早坂潔氏の存在も大きい。「何か悩んだり苦しいときに早坂さんの存在が大きかった」「何かの(変わり目)のタイミングやきっかけには早坂さんの存在がある」。
こうした声を聞く限り、「べてるの家」が取り組んできた「安心して絶望できる社会」の実践は、二つのコミュニケーションによって支えられているように思う。一つは最新のICTツールによるコミュニケーション。もう一つはそのツールの基盤とも言うべきアットホームな仲間の連帯感に支えられた「べてるの家」創立以来培ってきたコミュニケーション。これら二つの実践の基盤が、年間2000名以上訪れる研究者や医療関係者、地域社会の住民達をひきつけている。毎年行われる総会では好例の幻覚妄想大会が行われ町内外500名が集う。「安心して絶望できる社会創り」という実践が、地域外の研究者から、疲弊していく地域社会の他の住民から注目を集めている。
