尖閣諸島問題をめぐる我が国の外交の在り方

2010年11月17日 13:38 : Trackback (0) : このエントリーを含むはてなブックマーク

高塚 年明 (前参議院行政監視委員会調査室首席調査員)
 
中国発の尖閣諸島領有権問題

9月7日、尖閣諸島の久場島沖で海上保安庁の巡視船に中国漁船が衝突する事件が発生した。その後、船員13人が中国政府のチャーター機で帰国し、船長も沖縄地検の外交的判断などの理由で釈放され帰国した。船員13人と船長は中国国内では英雄扱いである。彼らはタラップを降りるや否や「尖閣諸島は中国領土である」と口を揃えて発言した。これには当初からの筋書きどおりとの印象を受けた。その間、中国要人による尖閣諸島の領有権の主張と日本側の対応を不法行為とする糾弾、中国旅行団の訪日中止、SMAPの中国公演の中止、フジタ社員の逮捕、レアアースの事実上の輸出停止、そして極めつけは毎度お馴染みの反日デモと続いた。これでもかこれでもかと矢継ぎ早に繰り出す中国の対応に国民は反中国感情を高揚させずにはいられなかった。ちなみに、2004年3月にも尖閣諸島の魚釣島に中国人活動家7人が不法に上陸している。この時は福岡入国管理局那覇支局が強制送還している。

尖閣諸島は、1885年以降現在の沖縄県当局を通ずる等の方法により10年をかけて現地調査を行い、これが無人島であるばかりではなく、当時の清国の支配が及んでいる痕跡がないことを確認の上、1895年1月14日に我が国の領土に編入することの閣議決定を行っている。また同年5月の日清戦争処理を確定した下関条約第2条で我が国が清国から割譲を受けた台湾と澎湖諸島には含まれていない。さらに、第2次大戦処理を確定したサンフランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は同条約第2条に基づき我が国の放棄した領土には含まれず(放棄したのは台湾と澎湖諸島)、第3条に基づき南西諸島の一部として米国の施政下に置かれ、1971年6月17日の沖縄返還協定により我が国に施政権が返還された地域の中に含まれている。ちなみに、米国の施政下にあったとき中国は米国に対し異論を唱えていない。したがって、尖閣諸島は我が国の領土である。

そもそも中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは、1969年と70年に行われた国連の海洋調査で推定1,095億バレルというイラクの埋蔵量に匹敵する石油埋蔵量が存在する可能性が報告されたことにある。1971年12月、中国は尖閣諸島の領有権を主張した。中国の社会科の地図では、1970年の南西諸島の部には「尖閣諸島」と明記され国境線も尖閣諸島と中国との間に引かれていたが、1971年の教科書では尖閣諸島は中国名の「釣魚台」と変更され、国境線も日本側に拡大している。そして1992年、中国は尖閣諸島を領海法において自国領土とした。

したたかな中国の対外戦略

漁船衝突事件から反日運動までの中国の対応をみると、或るところが裏で糸を引いていると思われる点が多い。まず、漁船の衝突事件がなぜこの時期かである。9月7日というのは民主党代表選の最中である。中国側は民主党政権の外交能力に弱点ありと見たのであろう。そして、なぜ漁業に関係のない内陸部で学生による反日デモが起きたのか。第1に考えられるのは、内陸部での不満の高まりである。発展する沿岸部との経済格差は縮まるどころか広がる一方だからである。第2は、大学生の就職難である。日本の大学生の就職難も厳しいがそれ以上に厳しい状況と言われている。そして第3に、不満を持つ若者を使うという手法である。文化大革命の際の紅衛兵を思い出してもらいたい。現在の中国の大学学生会は共産党の指示の下でしか政治活動はできない。これが内政に対する反政府デモが起こりえない理由でもある。今回の反日デモは2005年と同様、官製の疑いが強い。前回の反日デモは官製で始まり、これに軍部の一部強硬派が加わり、さらに一般の不満分子が加わり収拾が付かなくなってしまった。今回は官製の段階に抑えられていると見てよい。反日のプラカードに混じって「腐敗の根絶」「雇用の確保」といった政府批判が含まれていることから、これが反政府運動につながることを恐れての対応であろう。

次に、レアアースの事実上の輸出停止である。これは見事に練り上げられた外交戦術である。実はレアアースの輸出停止には一石四鳥の狙いがある。第1に、日本の首根っこを押さえることができることを日本のみならず欧米諸国にも示すことである。第2に、価格をつり上げることができる可能性を示すことである。第3に、レアアースを輸入しこれを使う海外のハイテク企業を中国国内に呼び込むことである。そして第4に、G20での元切り上げ要求への交渉カードとして使うことである。

ではなぜ、中国がこれほどまでに力にものを言わせた重商主義的、拡張主義的外交を展開するのだろうか。それは13億の人口を養っていくためには少なくとも8%成長を維持しなくてはならず、そのためには世界から資源、資金そして企業を集め、雇用の確保に努めなくてはならないからである。それ故、資源を保有する途上国に接近し、インフラ整備支援のために中国人技術者と労働者を送り込むのである。また、中国周辺諸国の首都ではインフラ整備支援とともに、中国人3万人規模のチャイナタウン建設も進め、その国の政治経済に少なからず影響力を持とうとする。さらに欧州への接近では、財政破綻に陥ったギリシャの国債を購入し、同様の困難を抱えるポルトガルにも財政支援を表明し、両国の下支えを行うこととしている。実に巧みな戦略である。

日本がとるべき対応

漁船衝突事件から反日運動に至る過程で、我が国外交の足腰の脆弱さが露呈されたと言えよう。この機を利用して、ロシアのメドベージェフ大統領が国後島を訪問した。ラブロフ外相は、我が国の抗議に対して「北方四島はロシアの領土である。国内を移動するのに外国から抗議される理由はない。」と反論した。外交とはこうしたものである。自国に有利と見れば突如豹変することも十分ありうる。こうした相手に向かっては、直ちにそして明確に反論しておく必要がある。尖閣諸島の領有権を主張する中国に対しては、なぜ尖閣諸島が日本の領土であるか、そして中国の論拠には不備があることを内外に向けて発すべきである。「国内法に基づいて粛々と」では相手国も諸外国もそして国民もよく分からないのである。また、ラブロフ外相の発言に対しては、日露両国が北方領土問題=北方四島の帰属の問題であることを相互に確認していることから、その発言が全くの誤りであることを内外に向けて発すべきである。

中国とロシアに対しこうした対応が不十分と見られたせいか、国内には「弱腰外交」を批判する声が聞かれる。我が国の場合、相手国を刺激しまいとして過剰に配慮してしまうことが多い。和の精神、譲歩の美学と言われるが、それは国内でしか通用しない。国際関係においては、実のところ「強面外交」が時折顔を出す「実利外交」なのである。ただし、我が国の場合、「強面外交」が功を奏するとは思えない。不得意でありまた似合わないからである。約束を反故にしたり相手を後ろから切るようなことはできないし、またそうすべきではない。私見ではあるが、中東諸国や途上国の間では日本、日本企業そして日本人に対する信用度はかなり高い。こうしたフェアープレー精神はソフトパワーの一つでもある。そうであれば正攻法として論理的展開を適時かつ明確に示す以外にないのである。問題はそれが十分にできているか否かである。

1990年代初頭、日米中3カ国の関係は日米の強力な軸を底辺とし、遠い頂点に中国が存在するという鋭角な二等辺三角形であった。しかし、20年が経過した今日、3カ国の関係は正三角形に近い。日米間には同盟関係が存在するものの、政治、経済、軍事などを総合した国力からみると、中国の国力の増大は著しい。しかも今後、更に増大する勢いである。尖閣諸島に関しては日米安保条約第5条の対象となることが確認されたことは有益であるが、当然といえば当然のことなのである。しかし、ここで注意すべき点がある。アメリカは日本の領土問題に関してはこれまで中立の立場を貫いてきたのである。正三角形の関係であれば、絶えずアメリカと協力してという姿勢は許されないであろう。明確な外交戦略の下で、主権国家として主張すべきは主張し、自国で解決するという姿勢が不可欠である。

残念ながら、現政権の「国家戦略局(National Policy Unit)構想」は国家予算局以下である。政治、経済、軍事などの国際情勢の変化を十分に分析・評価した上で、国家の成長・発展を目指す拠り所となるものが国家戦略(National Strategy)である。この国家戦略に基づいて外交政策、経済政策などの諸々の具体的な政策が決定され実施されていくのである。しかるに、同構想では、経済運営の基本方針、財政運営、租税政策の基本及び予算編成の基本方針の企画及び立案が主たる所掌事務となっている。国家戦略の本質とも言うべき前段の部分が欠落しているのである。「失われたれ20年」とは国家戦略なき国家の所産ではなかったのか、そう思えてならない。

1949 年生まれ。1979 年、3つの民間企業を経るとともに早稲田大学大学院経済学研究課博士課程前期修了。同年、参議院事務局入局。予算委員会調査室、決算委員会調査室、外務委員会調査室等を経て、参議院第一特別調査室 首席調査員。2009年3月、行政監視委員会調査室首席調査員を最後に退職。